
第3弾 その2
驚きと懐かしい写真が続きます
| 今回の、その2のページは、先日テレビで放映された、「木曽森林鉄道」を 鉄道仲間の写真を集めて、われわれ「団塊の世代」が50年前までこの鉄道が生きていた時に見た「現役時代の木曽森林鉄道」を再現しようと、数日間は当時の写真や路線図の収集および制作に多くの時間を費やしました。昔のボールドウィンの時代でもなく、今の赤沢の木曽森林の復活でもなく、現実に上松から走っていた当時の「木曽森林鉄道」をまとめてみました。中央西線は比較的遅くまで蒸気機関車が走っていたので、上松で下車し、写真を撮っていたファンも多かったでしょうが(私もそのクチです)
本格的に森林鉄道だけを撮っていたファンは、そんなに多くはなかったはずです。 今回は、ディーゼル機関車や、客車・貨車よりも(車両は皆さん結構撮っているようなので)、この林野庁・長野営林局が木曽谷の国有林を搬送するための、いわば国鉄ともいえる路線に、どれほど木曽谷に多くの営林署と貯木場が残っていたか、を写真とともに1970年前後の終焉時でしたが、調査し写真も集めてみました。最後は王滝森林鉄道だけでしたが、そこから派生していた網の目のような貯木場への支線や、今では解明できない枝線も多くありました。撮影はTS氏は1966年と1971年の2回、NARO20氏は1973年に訪れていますが、撮影年月順に並べても、ここでは余り意味がないので、(一部、小川線が廃止される直前の1966年の写真がありますが、日曜日だったので、列車は運休、複雑な線路だけを撮っていますが、小川線が廃止になっても、王滝線は残っていて、上松周辺の様子は殆ど変わっていないと撮影者は述べています)お二人の写真を分けて整理することにしました。たぶん説明にも多くの間違いがあるかもしれませんが、お気づきの点はご指摘頂ければ幸いです。 |
| ★正島貯木場に行くには凄いオメガカーブがありました。更に、木曽川を渡る鬼淵鉄橋の先に1966年には王滝線から反対方向に向かう小川線のスイッチバックがあり、ポイント切り替えの操作小屋もあったのです。 |
| 小川線が廃止になった後、王滝線だけになってからは、恐らくそれほど変化はなかったはずなので、両氏の写真を分けて貼るだけにします。今さら、この枝線はもうなかった、と指摘されても、我々には検証のしようがありません。 なぜならば、この路線に一度深く突っ込むと、もう収拾がつかなくなることが確実だからです。70年前後はこんな感じの森林鉄道だったのだ、とイメージされることだけで十分だと思います。 |
| まずは下のマップをご覧ください(なんと手書きで)調べて送ってくれました。写真と合わせてご覧になると、分かりやすいと思います。木曽森林鉄道の上松駅は、国鉄上松駅の北側にあり、西貯木場・東貯木場・正島貯木場からの3線が合流した先にありました。とても合理的にレイアウトされていたことが分かります。工場もここにあり、出発点としては、条件がそろっていました。なお、マップは真北が大幅にずれており、実際は90度左に縦にしないと、正格な地図にはなりません。文字入れのため分かりやすく書いてもらったためです。 ★注: 小川線がまだ走っていた1966年の上松駅近辺のマップです。 |



| もっと先に行きます。数多くの線路が分岐していて複雑です。左側の砂利の色が違う単線の線路は、中央西線です。こんなに隣接していたのに、木曽森林の貯木場があった記憶などありません。 |

| 森林線路は西貯木場の上の写真の貯木場の奥にもあり、少し橋桁が見えています。コンクリの橋脚まで作って線路をぐるりと回していました。何か意味があったのでしょうか。今となっては理由も分かりません。 |















| 凄い貯木場ですね。休みでなければ、人々で賑わっていたことでしょう。こんなところまで、苦労して線路を敷いて、木材を上松まで搬送していたんですね。この俯瞰で、作業中を撮りたかったですね。 |



| 同場所で反対側を撮ってみました。左は上松に向かい、右側が鬼淵駅の手前のヤードでスイッチバックして小川線で赤沢に向かう線路と想像できます。手前は王滝線のヤードです。この正面の建物がここの複雑な線路切り替えを操作していた、信号小屋です。この日は日曜日だったため、職員はおらず、カーテンで締め切られています。まだ直前まで小川線が生きていた時代です。全て手動テコです。 |


| これが有名な木曽森林鉄道のシンボルでもあった米ボールドウィン製の機関車です。1959年に引退しましたが、上松の倉庫でひっそり静態保存されていました。狭いところに押し込められ、撮るのに苦労したと思います。既に1号のナンバーや製造銘板は外され、ナンバーは全て手書きでした。どこでそれら本物を保管していたんでしょうね。 |


| これは人を運ぶ客車で、サイドには「みやま」号と書かれたサボが入っていました。このころからは、人を乗せて走ることもしたようで(下記のnaro20氏のカラー写真を参照ください)他にも「みどり」「やまばと」のネーミングの列車もあったと聞きますが、詳細は分かりません。乗りたかったですね。 |



| これまた分からない車両です。車掌車ですが正式には「制動車(カブース)」と言うみたいです。長い貨物を監視する車掌車で、手動のようですがブレーキを備えています。ということは、全客貨車にブレーキホースを繋いでいたということです。これはやはり林野庁の管轄下だからこそでしょう。 |

| 撮影者は1973年になんと3回も訪問しています。1回目は、同年5月で、施設、車両等に圧倒されたそうですが、撮影は上松近辺だけだったそうです。そして乗せてもらえないかと直談判で頼んだところ、ケンもホロロに断られたそうです。その後、終点に親戚がある人は乗せてもらえる、というローカルの情報を得て、再度チャレンジ。終点の本谷のほうは、姓が「三浦さん」が多いとのことで、2回目9月に再チャレンジしました。現地で「あの~三浦さんの家に行くので載せてもらえませんか?」と言って頼むと交渉成立になったということです。ウソも方便ですね。この時は載せてもらえたそうですが、「命の保証はありません」の誓約書にサインをして、とりあえずは乗車出来ました。3回目は更にもう一度11月に訪問して、田島まで乗ったそうです。ただ、もうその時の記憶は飛んでいるようです。 ここでは、理由はご披露しましたが、場所にとらわれず日付順に、アップしていきたいと思います。かなり退色してはいますが、カラーはイメージが更に新鮮になります。 |

| 機関車のボンネット下に「みやま」号の看板がかかっています。この機関車のツートンはこの様な色ではなく、他の写真に見るように、上部の黄色はベージュ、下はブラウンの美しいツートンです。 経年劣化で変色なのか、春の逆光のせいなのか分かりませんが、とても残念な1枚となりました。色修正は殆どしていません。下の写真の色が正しいと思います。 |












